杭谷はすでに三十年来(ローマに到着したのは1969年である)イタリアと日本を行き来している。イタリアではカッラーラで制作し、日本では1982年から環境彫刻を設置している。また1960年代後半から故郷広島で作品を展示し、ローマでは1975年にシュナイダー画廊で個展を開いた。当時の彼の彫刻作品は、まだ個性を強く表したものではないが、分節化された動きある有機的な形体への志向を示している。1972年と73年の作品ではおそらく、アルプから有機的な抑揚のある造形を、またムーアから量感ある造形の中に意味深い空洞を取り込むことを学んでいる。これらの彫刻は全て『家族』と題されているがくり返し真ん中に空洞を置き、際立って有機的な二つの形体要素がその周りで弁証法的に合わさっている(生命の生まれる場、新しい人間の形成される場としての家族を象徴的に暗示する)。そこでは既に、要素と要素の対話の原理が明らかなのだが、こうした要素は依然、統一的な形の中でだけ別個のものとして対置されているのである。しかしこれより新しい1975年の作品では、これよりコンパクトな彫刻となっているが、すでに十分別個のものとなった二つの構成要素が混じり合っている。そして際立って有機的な特質を示したもので、それが単なる構造的な枠組の中に挿入されている。
確かに杭谷の造形的想像力における有機的要素は、70年代初めのこうした経験にさかのぼる。しかし当時この有機性は空間に立ち上がる造形イメージを完全に覆っていた。それは人間の姿に基づきながらそれを乗り越えてしまっている。この有機性の内に二つの特徴が見て取れる。一つは「密」と「空」、またふっくらした形の表面に当たる光が生み出す空間の弁証法的関係である。二つ目は素材との関係に充分配慮していることである。彫刻の素材は木であろうと大理石であろうと触覚的なもので、殆ど愛撫して触れさせるほどの魅力を持ったものとして理解される。杭谷は手仕事の質の高さに注意を払う。それは技術的な質(これは石を技巧的に扱おうとする多くの彫刻家の限界である)ではなく、表現面に於ける意味である。
1975年の彫刻作品には、それ以前の型から離れたより複合的な構成が認められる。大理石や木、時にはブロンズの彫刻に於て、有機的な統一性は取り除かれ、有機的な要素とより構造的枠組とが明らかに対置されるようになる。過剰な有機的要素は凝集し、全体の構造の中で解釈され、エピソードとして定義される。このように70年代半ばには造形的力が独特なまでに密度を高め、既に充分個性的となっていた彫刻の内に想像力豊かな構成要素が初めて二極化して現れる。そしてこの構成要素は80年代には既に、彼のモニュメンタルな規模の作品を制作する彫刻家としての仕事に明らかとなる。
杭谷は、この環境彫刻家としての活動を1978年に始める。彼はこの年、府中市の小学校のために、この時期にはまだ異例な作品を制作する。やはり『家族』と題されたもので、まだブロンズ製である。1981年にはマリーノ市のヴィラ・デジデーリで、今度は石を用い、分節化された構造を持つモニュメンタルな造形を作り上げる。これは地元の石ペペリーノによる作品で、これも『家族』と題されている。
彼は、密と空が造形的に力強く複雑に交錯するこの作品で、1975年の彫刻で既に「小さく殻に包まれて」示されていた構造的要素と有機性を暗示する要素との対置をさらに押し進めている。
しかし、彼が環境彫刻家として想像力豊かな重要な試みを始めるのは、1982年にカッラーラの大理石と花崗岩で分節化された造形アンサンブルを府中市文化センター正面広場に設置してからである。17mx7mの広がりと3mの高さを持つこの作品は、素材の質や処理の仕方が非常に異なった造形要素があちこちに置かれ、通行可能な空間になっている。様々な形の有機的な形体と簡単に四角く型取られた要素との間に差異が設けられているのである。この作品は、想像力の点ではっきりとした質的な転換を示すものであり、環境彫刻の流れの中で新たな提案を行うものである。
実際この作品は既に傑作である。このアンサンブルに於て、対話の状況が実現されている。それは全体に収斂される様々な(そして大きな差異の設けられた)造形要素の間の対話であり、また開かれた関係にある作品享受に於ける対話である。都市の中で何度も立ち寄ることのできる場所に設置され、通行可能な空間を構成する。そこではあらゆる造形的要素が触覚のためにも通行のためにも機能し、出会い、佇み、休息の場所として構想されている。それゆえここで彫刻は、形体を鑑賞し、素材を触知することができ、身近で人付き合いの良い存在となる。そして様々な要素をあちこちに配置して造形的空間的アンサンブルを構成するという(これ以前の二つの作品では分節化された構造を持ちながら、単一のブロックのままであった)新しい試みによって、「家族」というテーマ(今回もやはりこの題が与えられている)に込められた意図に相応しい形体が現出するのである。杭谷は次のように注釈する。「この複合的な作品の中央には骨格を成す二つの構成要素があり、三つめの構成要素を支えている(しかし同時にそれによって結び付けられてもいる)。これは両親と子供、過去と未来を表しており、作品全体の意味や建築的構造からして、まったく必然的に緊密な関係にある。周りでは四季が、時間の流れに従い、「家族」の生活や社会への参加を見守っている。」(7)
組織された空間のあちこちに、モニュメンタルな造形物を配置したアンサンブル。大理石や花崗岩でできた造形的にも素材的にも力強く過剰な、そして象徴や記憶に満ちた物体。そこでは既に、この彫刻家が環境と関わりを持つ造形を制作する上で完全に成熟していること、彼の生まれながらに持つ、素材を支配し同時に素材に耳を傾ける能力、さらに様々な要素を配置し、空間を分節化して行く際の決然とした判断力が示されている。通行可能な造形的状況。それはまた接近した日常的な関係に於て利用可能で、素材に接して触知することによって造形を享受することさえできるのである。
これ以来、杭谷の造形的想像力が目指す最高の目標は、決定的に環境的規模での彫刻制作となった。既に80年代の前半に、そうしたスケールの作品に頻繋に携わるようになる。同じく1982年府中市で花崗岩による作品を高校の前に設置する。力強く、垂直方向に展開してゆくこの作品は意味深く『かたらい』と題されている。『家族』のようにあちこちに様々な要素が配置されたものではなく、構造は二つの造形要素に分節化されている。一方はそそり立ち(高さ5m)もう一方はまとまっていてどっしりしている。この二つが結び付き、異なった形態を通してまさに互いに語らっている。この形態の違いは類比的にやはり原初的な生命の二つの原理に対応し、ダイナミックに結合する。この二つの要素は造形的にかなり複雑な形態をとり常に変わってゆく。有機的な動きが優越したり、逆に構造的な外形が優越したりするのである。また造形的に異なる特徴を力強く対置するため、削磨されたり槌跡が残されたり、磨かれたり、未加工の表面が残されたりと素材の仕上げもかなり異なっている。
1984年に三原リージョンプラザに作られた『かたらい』も垂直の構成を持つ。カッラーラの白大理石による作品であるが、特に素材感を出すように使われており、大部分粗面仕上げが施されている。中心となる二重の構造(高さ7m以上)は、未加工のブロック状のものや有機的な抑揚を持つ形など、様々に象られた二義的な造形が縁取る多角形空間の中央に置かれている。それを構成する二つの要素は全体としては幾何学的であるが、その内部の接合部分は明らかに有機的な姿をしている。
二つの垂直的要素(高さ5m)から成る類似した形態的を、杭谷は、既に1983年広島全日空ホテルに建てた『経験』で提起している。
一方1985年に甲山町宇津戸公民館正面広場に設置した花崗岩による『道程』(高さ4m)では、二つの要素は有機的に接合し、殆ど互いに溶け合っているようである。
この頃の杭谷の環境的規模の作品には二つの方向性があるように思われる。一つは、非常に差異化された造形要素をあちこちに配置することによって、空間的に、とりわけ水平方向に豊かに分節化された複合的な造形アンサンブルを場に合わせて組み立ててゆき、物語の如く造形的出来事を多重に作り出してゆく方向。そこでは感覚的にだけでなく、象徴や記憶に訴えかけるものが、説得力を持って意味深く多彩に満たされている(1982年の府中文化センター正面広場の作品、1984年甲山町役場正面広場の作品、1986年に福山市春日池公園に作られた作品など)。
もう一つは、単独の主役となる構造を垂直に力強く空間の中に挿入してゆく方向。然しながらその構造は弁証法的関係に置かれる二つの構成要素によって内部が分節化されている(1982年の広島県立府中東高校の作品、あるいは1983年の広島、1984年の三原、1985年の甲山町の作品など)。
形態的に非常に差異化された造形要素をあちこちに配置し、極めて分節化されたアンサンブルの内、1984年に制作された『水のデュエット』が重要な作例である。これは幅30m、奥行6m、最大の高さが4mに及ぶ赤と灰色の花崗岩による作品で、甲山町役場の正面広場に置かれている。基本的には水平方向に展開するアンサンブルだが、そこには二つの円柱が立てられている。その整った形の柱身や滑らかな表面は、有機的な造形に侵食された未加工の柱のようである。この二年前に府中に設置されたアンサンブル『家族』よりゆるやかで、そして造形的処理に富んでいる。然しながらそれは、この時期の杭谷の彫刻がどのように環境に働き掛けているかを示している。またあらゆる要素が日常的に利用可能で通行可能な造形的アンサンブルを実現しようという彼の意図をよく表している。
1986年に福山市春日池公園のために制作された『太陽の滴』は、より巧みに空間を統合した杭谷の環境彫刻の傑作である。カッラーラ大理石と花崗岩によるこの作品は35mx27mにわたる広場のようなアンサンブルで、二つの主役となる大きな造形要素(高さ8m)がそそり立ち空間を統合している。一つは石碑の形、もう一つは円錐形をしている。それらは簡単に四角く切られた大理石の大きな石板が規則なく重ねられた地面から現れるかのようである。大理石の石板がばらばらに配置され不定形で混沌とした床面となる。二つの構造が地中から立ち現れて、この環境状況を裂くかのようである。実際この二つの構造は徐々に勢いをつけて上昇して立ち上がり、有機的に合成され、象徴的に男性の原型的要素と女性の原型的要素と定義し得るような一組の有機体となる。この二つの要素は下の部分で、地面からたくさん有機的なものが現れ出る一種の通廊によって結ばれている。
この魅力的な造形アンサンブルでどういったテーマが意図されているかは、杭谷自身がはっきりと表明している。「太陽と滴と人間の手が、マグマから形を生み出す。何世紀も大理石の魂の中で眠っていたその形は今、日光のもとに現れ、歩き廻ったり座ったりよじ登ったりして、物理的にこの彫刻と触れ合う人々と共に生活に参加する。」(8)
粗面仕上げの施された二つの主役となる構造は、触知的で光が砕けるような特徴を持ち、また当然ながら有機的な感覚が形に広く行き渡っている。こうして造形全体にも大地を思い起こさせ、感覚を喚起する力が与えられて、総合的な造形作品としても極めて魅力的なものとなる。そしてこのアンサンブルが太陽の入射、大理石の白い眩さによって、自然と対比されるものとなる瞬間、遙かなる自然の生命の原理が無限の時に映し出され、そこに立ち返るような心理的状況が創り出される。
真っ黒なアフリカ花崗岩で作られたふくやま美術館脇の『敬意』は、殆ど暴力的ともいえる。これは地面から立ち上がる二つの向き合う要素(それぞれ高さ12mと7.5m)と芝生に置かれた小さい要素から成る。杭谷は次のように力説する。「力強い二つの構造が神官のように厳かな態度で向かい合っている。明らかに東方的な敬意の表し方であり、それゆえ両者の間の距離も重要である。邪魔にならないように、これより狭くはあり得ず、また関係が希薄にならないように、これより広くはあり得ない。鏡面状に磨かれた壁面を通じて、この二つの構成要素(私の彫刻に典型的な特徴)の間にやり取りが行われる。映し出すことによって、もう一方の彫刻を、また周りの世界をも自分のものとするのである」。(9)
美術館の白い建物に対して色彩が鮮やかに際立つ黒いアフリカ花崗岩は、地殻から湧き出る自然の力を映し出すかのように二つの巨大な尖頭形をしている。地面の小さな断片に囲まれて立ち上がるこの二つのモニュメンタルな要素は、面によって異なった効果を出している。空や周りの木々、そして町自体を映す完全に滑らかな鏡のような面と、自然で生の、ごつごつしたままの状態の面は対照的である。こういった関係を微妙に調整することは、造形と素材に力を生み出し、自然に於ける生命の二つの原理が対話ある均衡状態に到達するために心理的な役割を果たす。この際の自然は、普遍的な全体性、即ち時間の中で考察されるものである。
新尾道駅正面広場に置かれた1989年の作品『大地の鼓動』も、大理石の土台から立ち上がっている。そこに散乱した断片は3年前の福山の作品とやや似て、地中から立ち現れる様を表すかのようである。しかしすべてカッラーラの白大理石で出来ているこの作品では単一の構造から成り、複雑なピラミッド型の輪郭の中で、二つの要素が有機的に接合している。遠い昔のイコン的な原型は、「家族」をテーマにした1987年の彫刻作品(翌年フェラーラで展示される)にも見られたが、そこでは構成要素はすでに結び合わされていながら、まだはっきりと別のものだった。それに対してこの作品では二つの要素はしっかりと締め付けられ、まさにその結合から有機的な泉が流れ出るのである。外側は主に全体の構造が輪郭を描き、広々とした表面には粗面仕上げが施されている。一方内側の有機的な部分は磨かれて大理石の石目を表している。
杭谷がはっきり述べているように、どのようなテーマが意図されているかはここでも非常に明確である。「砕けずに先端を合わせて収斂する波が、上に向かうただ一つの動きを創り出す。この作品は地上から(というよりも尾道の海から)湧き上がり、人々の協力が生み出す力を象徴している。長年にわたる努力の末、重要な施設(新幹線の駅)をやっと実現することができたこの町にとっては特別の意味をもっている。駅はこの彫刻の存在によって強調されるが、その落成式には前例を見ない式典が執り行われた。」(10)
杭谷の彫刻に於て創意ある造形と、形体と素材の意味が、象徴的に伝達しようとする内容と正確に一致している。とりわけ環境的規模の作品にそれはより明らかである。それゆえこの象徴的に伝達されるものは後で付け加えられるのではなく、造形の創意そのものに内在する。というよりもそれを動機付けるのである。
地中から造形構造が姿を現すというテーマは、杭谷の環境的想像力において頻繁に見られる。プラット・デ・リョブレガットでの石彫シンポジウムに引き続いて、1989年にバルセロナのカタラン広場のために制作したアンサンブル『大地の鼓動』でも同様である。揺れ動く舗床面から大理石の断面と、部分的に侵食されたり磨かれたりする石碑の形をした高さ11mの一枚岩が表面に現れ出る。これは杭谷によれば「大地からエネルギーを引き出し、決然と太陽を目指す樹木のようなものです。周囲には、他の構成要素が同じ緊張に押されて湧き出ています」。(11)
杭谷の環境彫刻の生き生きとしたもう一つの傑作、1990年に広島県世羅町の藤原眼科医院正面広場に置かれた『大地の鼓動』では、特にこのテーマが明らかである。23mx18mにわたってカッラーラ大理石の板がばらばらに並べられた土台から(これは間違いなく『未来心の丘』の環境的背景となる大理石舗床の先例である)、モニュメンタルなアーチを暗示するかのように、二つの要素(高さ6m)が向かい合ってそびえ立つ。骨でできたかのような有機的な形状は、本質的な最低限の造形要素からなっており、先史時代の動物の対称的な二つの巨大な断片であるかのようである。そしてほっそりとした活力を示しながら、はっきりと空間の中に輪郭を現している。ここでもまた、このまったく独自の創意ある造形は、正確にあることを象徴的に指し示す。杭谷はこう明らかにする。「眼科病院の入口の役を果たすことからこの作品は、人体が対称であるように二つの対称的な構成要素から成り、それらが出会う点で目のイメージが形作られています。設置場所に制約されながらも、人々によく見えること、未来を見つめることを可能にする対話、語らい、協力といったテーマが再び提案されています」。(12)
おそらく杭谷の実現した環境彫刻のアンサンブルの中で、最も本質的な作品である。大理石の石板をばらばらに置いた土台が広々とした環境の空間性を規定する。そこにそびえ立つ造形要素により本質的な内容が込められる。この両者の関係に80年代のより以上に造形的な作品とは異なる新しいきっかけが見出されるのである。この意味で『未来心の丘』の非常に開けた空間性は確かに先取りされている。杭谷がより深く係わろうとしたのはこういったますます複雑な形をとりつつある大きな事業であり、90年代を通して多くのエネルギーをそこに費やしている。ただ世羅町の作品は、彼の想像力が新しい造形的アイデアに焦点を当てつつあることをも示している。有機的形体を本質的なものに留めて分節化しているが、そこから後に構造的なことにより関心が向けられることを予見させる。杭谷が90年代に実現したモニュメンタルな彫刻では建築性が重視されたために、アンサンブルの分節化にはより少ない関心しか払われなかったことが示されている。建築性がより重視されるとは、主役となる構造的要素とそれの立つ場とが、より造形的に結びつくことを意味する。そしてこの二つの構成要素が緊密に結び付き、新しい造形的・建築的統一体となる。これは杭谷が1990年に大きな有機的な門として構想した『大地の鼓動』で試みたことである。これも彼の探究の新しい側面であり『未来心の丘』の造形的・建築的処理に取り入られるものとなる。
1992年に福山城公園に作れれた花崗岩製の『水の城』も造形的・建築的な処理を施したもので、そこには自然の要素である水が直接取り入れられ、滝に利用されている。石と水のダイナミックな関係を想像力豊かに処理し、素晴らしい効果をあげている。12mの高低差を持ち、幅は7mある。
1993年、千葉市通町公園にカッラーラ大理石で制作された『大地の鼓動』では、全体に粗面仕上げの施された石碑のような構造(高さ8m)に戸口が開けられて、大きな取っ手のようなものが付けられている。この垂直の構造が、造形の施されたかなり広い基台(23mx18m)の上にそびえている。ばらばらに石板が敷かれた石畳の上には未加工のブロックがいくつか配置されている。ここでも大きな彫刻とその背景となる造形的な場との関係が『未来心の丘』の雰囲気を予想させる。
1995年には東京都千代田区のいきいきプラザの入口の両脇に、『共生』と題して上に穴の開いた二つの石碑状のものを置いたが、ここでも造形的構造の建築性により注意を払っていることは明らかである。二つのモニュメンタルな警告を発する守衛のようであり、凝ったポストモダン建築と対照的な自然の本来の意味を思い起こさせようとしている。この石碑(高さ8m)の輪郭は力強くダイナミックで、カッラーラの白大理石に施された粗面仕上げが素材感を際立たせている。二つは互いに離れて立っているが、防御、守衛という同じ役割で理想的に結び付けられている。
『未来心の丘』の雰囲気は、1997年に鹿児島市の健康の森公園にカッラーラの大理石で作られた『卵の城』と題されるアンサンブルにも明らかに示されている。そこでは外に開かれた石碑が周囲の風景と結び付き、自然の有機的形体が石碑に繰り返されている。この石碑は(高さ8m)造形的処理の施された面(17mx12m)から立ち上がる。この面は段差のある石の舗装の仕方からしても、形をとったり未加工のまま残したりする石の扱い方からしてもかなり分節化されており、そこに立ち入り留まることにできる状況を作り出している。
杭谷が1998年の「第9回カッラーラ市国際彫刻ビエンナーレ-彫刻・建築・都市」のために制作した『天地花』と題する作品でも、開かれた構造が有機的に展開する様を再び提示する。それは、生気ある基台からそれと密接な関連を持ちながら立ち上がっている。
(7) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.6. |
(8) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.8. |
(9) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.8. |
(10) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.8. |
(11) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.9. |
(12) | In“Gazzetta delle Arti” cit.,p.9. |