杭谷は原爆投下後の広島という悲劇的な状況の中で幼少期を送り、そこで人間として鍛え上げられていったのであるが、彫刻家としては、圓鍔勝三の指導の下で形成された。圓鍔は東京の美術アカデミーの教授だったが、生き生きとした叙述的な想像力を示す大変自由な具象的表現を押し進めていた。また伝統や西洋からの示唆に注意を傾けた。様々な素材(木からブロンズ、石まで)にも取り組み、素材自身が持つ様々な色彩の効果を利用しようと試みていた。杭谷は1957年から圓鍔の工房に出入りするが、若い彼にとってそれは技術的にも文化的にも訓練を積むことを意味した。この時期に古いものも現代のものも含め、ヨーロッパの彫刻に関する知識を深めることとなる。このことが、1969年ローマに赴き、美術アカデミーでペリクレ・ファッツィーニの授業に通うことの前提となった(1971年に卒業する)。
ファッツィーニとエミリオ・グレコは、当時日本でも最も有名なイタリアの現代彫刻家であり、イタリアで彫刻を学ぼうとする若い日本人にとって(ミラノのマリーノ・マリーニと共に)の拠り所であった。両者とも互いに異なったやり方ではあったが、近代を総合するような具象彫刻を実践していた。一方杭谷は1962年から「日展」に出品しており、1967年には福山の画廊で最初の個展を開いている。もちろん彼の彫刻は当時具象的なものだったが、そうした中にも総合的な解決法を求め、新しい実践にも意欲的であった。
1974年ファッツィーニはローマで、ピエール・ルイージ・ネルヴィによって建設されたばかりの謁見の間に大きなレリーフ彫刻『復活』を制作していたが、杭谷を助手として参加させた。
1975年には先に述べたようなシュナイダー画廊で個展を行う。その時既に非具象的なヨーロッパ前衛彫刻の展開を意識的に研究する彫刻家として姿を現していた。当時展示された作品(小さいながら、既に大規模な彫刻となりうる可能性を示していた)は、初期の具象的作品(グレコの具象的作品に見られる優雅さに関心を払っているが、ムーアの原型的な総合にも注目している)が、まったく非具象的な形体へと展開する可能性を示している。そこでは類比的に何かを明らかに示唆するのであるが、イタリアで探究してきたことの一つの到達点となった。
杭谷の作品はこうした変化を見せていったのであるが、造形的有機性の魅力、表面の滑らかさという点で、杭谷は疑いなくアルプの教える所に敏感である。しかし彼の芸術形成に於て、ムーアの教えがより重要であった。それは原型的なものを暗示する形象を総合するという点で、またーとりわけこのためだと私は思うのだがー「密」と「空」との弁証法的関係を通して、空間と弁証法的に結び付いた造形を自由に創造するという点に於てである。然しながら彼を彫刻家として決定的に成熟させ、環境的な彫刻に携わることを熱望させたのは、過去から現代に至るイタリア美術の文化遺産との出会いだった。それだけでなく木やブロンズを用いた後に(圓鍔の工房で多少なりとも石の経験があったといえ)、モニュメンタルな作品を作りたいという彼の望みに一番適した素材を石-即ち大理石-に見出したのもイタリアに於てなのである。
エジプト彫刻や古代ギリシャ、エトルスク彫刻に関心を向けていたが、イタリアで、そして当然とりわけローマで(1974年までそこで暮らし、後にカッラーラに腰を据える)彼に最も感化を与えたことは、建築的状況に包まれた造形として分節化される彫刻、都市の文脈の中で造形的エピソードとして現れる彫刻(例えば噴水彫刻)、即ち環境的次元で重要な位置を占める彫刻といったものが可能であるという事実である。もちろんこれは特にジャン・ロレンツォ・ベルニーニの天才的な建築的造形的環境を始めとするローマのバロック彫刻が示していることである。また杭谷に感銘を与えたのは、聖堂の内部と外部の造形の間に見られる複合的な関係である(サン・ピエトロ聖堂で彼は強い印象を受けている)。
杭谷の造形的想像力は、確かにこういった歴史的作例に刺激されて環境彫刻へと向かい成熟していったのだが、現代の作品によっても明確にされたものである。北アメリカ人として生まれながら文化的起源を日本に持つ偉大な彫刻家イサム・ノグチは40年代から設計の上でも実制作の上でも意義深い環境彫刻アンサンブルの実践を行っている。杭谷は70年代のイタリアで環境彫刻の分野に特に携わっていた彫刻家の具体的な作品との出会うことになる。まずフランチェスコ・ソマイーニの作品と、彼の近代都市の文脈における彫刻のあり得べき役割についての理論的考察が挙げられる。それによれば、近代都市の匿名性に対抗してその埋め合わせをするために感情を強く引き付け、記憶の厚みや生活における大事なテーマ(愛、死、性)に立ち返るよう注意を喚起する造形的状況を作り出すべきなのである。(13)
また別に、特にピエトロ・カシェッラは通行可能な環境彫刻を想定していた。それは充分に分節化されたアンサンブルで、形体的要素や素材の実質と心地よい関係を結べるような魅力的なものにあふれている。そこでは享受する者と深く対話する彫刻が目指されており、原型的でアルカイックなものを喚起する象徴的含蓄に富んだ形体を経験することができる。(14)
ただ、都市空間の中に彫刻を積極的に介在させるという課題は、イタリアでは既に70年代の初め「ヴォルテッラ73」という重要な催しで取り上げれらていたのである。これは1973年にトスカナ州のこの歴史的な町で、筆者が彫刻家ミーノ・トラフェーリと共に企画したものである。(15)
イタリアにおける環境彫刻探究の頂点は当時フランチェスコ・ソマイーニ、ピエトロ・カシェッラ、マウロ・スタッチョーリ、ジョ・ポモドーロの作品によって代表され、これは今でも変わらない。ウンブリア州の湖畔の町トゥオーロ・スル・トラジメーノにある『太陽の広場』(1985〜89年)には複数の作家が携わり、80年代イタリアで実現された彫刻の建築的アンサンブルのうち最大のものであるが、前述の4人も大いに個性を示しながら参加している。これは27の円柱=彫刻によって描かれた大きな渦を巻いる螺旋形(直径は40m)から成り、中央に板=食卓が置かれている。様々な世代、様々な文化を持つ国から来た、円柱と同じ数の彫刻家によって制作された作品である。
しかし杭谷は「ソマイーニの極めて有機的でダイナミックな彫刻は、生命力あふれる造形的エネルギーが表現されているという点からも関心を引いた」と私に述べている。(16)
これは杭谷の資質が本来、自分の彫刻の内に生命の有機性の原理を形作ろうとするものであることを確証する言葉である。生命が有機的なものであることを理解するのは、自然へ立ち帰るための根本的な前提となる。こうして杭谷は、日本近代の造形的伝統(例えば偉大なイサム・ノグチの作品など)に見られるよりも、有機性の原理を迫力ある方向に発展させることができたのである。この有機性の原理は、遠い時代の原型としてよりも、あふれ出すエネルギーの原理として理解される。そして彼はこの原理を東洋的な関心のあり方だが、石をはじめとする素材のアニミズム的な質と巧みに結び付けることができた。杭谷は石を原初の自然の一部として理解するのである。
このように過去から現代に至る西洋の造形文化全体から大きな影響を受けつつ杭谷の彫刻は形成されたが、西洋とは異なった自分の文化的起源ともうまく折り合うことができた。実際彼の彫刻の根幹を成す自然と再び結合する奥深い感覚は、典型的に東洋のものであり、ノグチの作品に見られるように現代にも残る日本的な文化に由来する。しかしまさに西洋の造形文化から刺激を受け、それに賢く手を加えることによって自分の異なった文化的財産の最も奥深い道理をより弁証法的な形で作品の中に汲み取ることができたのである。その際、表面的な伝統の魅力に捕らわれなかった。杭谷の作品は彫刻にとって今日最も意味深い議論、即ち環境彫刻に関する議論にアクチュアルに参加している。それでいながら彼の彫刻は、物体規模のものもそして特に環境規模のものは、ヨーロッパ彫刻家の作品と混同され得ないのである。彼に特徴的なことーそれは東洋のアニミズム的心性に特徴的なことでもあるーは、生命と自然の対立する原初の力の間に、ダイナミックな均衡を作り出そうとする点である。感覚的な心的な均衡を得て奥深い喜びを味わうべく、原初に於ける自然の天来の統一に帰ろうとするのである。
(13) | 筆者とソマイーニの共著、Urgenza nella zitt’a(Mazzotta, muilano, 1972)で 記した理論的考察と問題提起について述べている。また筆者がローマの美術アカデミーの美術史の教授であった時(杭谷はその時の学生の一人である)、ソマイーニの環境彫刻が提起する問題について抗議を行ったことを思い起こしておく。ソマイーニの仕事につては、Somaini, ie grandi opere, a cura di Enrico Crispolti e Luisa Somaini, Eiecta, Milano, 1997.を参照。 |
(14) | Cfr,: Pietro Cascella. Opere 1946-1986, testi di Ludovico Quaroni, Roberto Sabesi, Enrico Crispolti, Edizioni L’Agrifoglio, Milano, 1986. |
(15) | Cfr,: Volterra 73. Sculture, ambientazioni, visualizzazioni.progettazione per I’alabastro, a cura di Enrico Crispolti, Centro DI/sdizi ni, Firenze, 1974. |
(16) | それぞれ1985年、1986年、1988-89年の制作現場を所収する3巻からなる Campo del Sole. Un’arcbitettura di Sculture a Tuoro, pubblicati da Mazzotta,Milano, 1986, 1989, 1990, を参照。 |